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   西田 亙の本:GNU 開発ツール -- hello.c から a.out が誕生するまで --

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2003-10-11 (Sat)

[Thoughts] スラッシュドットジャパンとAC

ついに「CPUの創りかた」が、あのスラッシュドットジャパンに登場した。10月8日のことであるから、いささか遅いような気もしたが、現時点で100を超えるコメントが寄せられている。スラッシュドットジャパンの中では盛り上がった部類に入るのだろう。

さて、その内容だが残念なことに、いずれも薄氷のように薄いものばかりだ。これは、スラッシュドットジャパンに限らず、「匿名性」をベースに成り立っている2チャンネルなどにも共通した特徴である。

スラッシュドットジャパンには「編集者」なるものが存在するようだ。編集者を英語訳すれば Editor だが、本家 Slashdot のトップページにそのような項目は存在しない。どうも日本のオリジナル表現のようだが、彼らはこの言葉の意味を正しく理解しているのだろうか?

研究者の間では、一流雑誌の Editor ともなると、スーパーマンのような存在である。輝かしい業績を積み、学会にしかるべき貢献を果たした研究者だけが到達できる、極めて数少ないポジションだからだ。Editor によって癖はあるものの、超一流研究者の眼力は本物で、世界中から投稿された膨大な論文は、まず最初に彼らの「ふるい」にかけられる。もちろん、この選別理由は Editor のサイン入り書面で、投稿者に伝えられる。この厳しいふるいをくぐり抜けることが出来た論文だけが、複数の「reviewer」に送られ、専門家による厳しいチェックを受ける訳だ。

こういう厳しい世界で何度も Editor に泣かされた経験を持つ人間の目からすると、スラッシュドットジャパンで彼らが「編集者」を名乗っている姿は、何とも不可思議にして滑稽に思える。

「読者受けしやすいソースを選別する」という作業があるとは言え、彼らは鋭い考察を付けるわけでもなく、読者に丸投げしているだけである。にもかかわらず、自らを「編集者」と名乗ることには何か理由があるのだろうか?この点、本家 Slashdot においては、淡々と "Posted by *****. ##### writes..." と綴られているだけであり、選者を特別な存在として取り上げてはいない。これなら、了解できる。

また、見ていて面白いのは、日米間における署名欄の違いである。Slashdot の FAQ に "匿名で投稿できますか?" という項目がある。その答えは、次の通り。

We do, however, reserve the right to refer to you as an Anonymous Coward, and mock you mercilessly.

日本語で言えば、「どうぞどうぞ。でも世間からは情け容赦なく "臆病もののスカタン!" となじられまっせ」というところか。随分厳しい表現である(どっちが)。インターネットという公の場に、自分が書いた文章を投じる以上、その通りだと思う。実際、本家 Slashdot 上の発言を見ていると、そのほとんどに個人の URL が記載されていることに驚かされる(ペンネームも多いけれど)。Anonymous Coward による発言も散見されるが、そのスコアのほとんどはゼロである。つまり、名前も名乗らないような人間の発言には、誰も見向きもしないということだ。

それでは、スラッシュドットジャパンはどうだろうか?こちらは、Anonymous Coward の嵐である。しかも、それらのメッセージはかなりのスコアを獲得している。これを単なる文化の違いと済ませて、良いのだろうか?

アメリカでは Blog community が大流行しており、私も勉強がてら本日 TypePad なるものに挑戦してみた。登録作業を開始すると、Profile の画面中に 次のような項目が現れる。

Your One-Line Biography
  Describe yourself in one sentence.
Your Extended Biography
  Enter the full biography that you'd like to appear on your About page.

実名どころか、「Blog community へ参加する前に、自分が何物であるのかを明らかにせよ」という訳だ。大人である。今の日本において文責という言葉は、もはや死語になってしまったのだろうか・・。

[Books] CPUの創りかた・名著

さて、本題に戻ろう。スラッシュドットジャパンにおいて「CPUの創りかた」に対して100を超えるコメントが寄せられたのは、既に述べた通りだが、この中の誰一人として「TD4 製作に取り組んでみた」とは言っていない。出版後間もないコメントとは言え、そのほとんどが「通りすがりのエトランゼ」なのだ。

なぜだ?なぜこれほどの名著に対して、見過ごすことができるのだ?「しらふ」でいられるのだ?それとも、私の頭がどうかしているのだろうか?

この20数年間手に取ってきたコンピューター和書の中で、「この内容であれば世界に通用する」と確信したものは、わずかに2冊。1冊は「はじめて読む486」、そしてもう1冊が「CPUの創りかた」。独創性、本質の掴み方において、後者は圧倒的に優れている。私にとっては、間違いなくここ数十年を代表するコンピューター書なのだが、世間はただ単に「面白がっている」ようにしか見えない。かえすがえすも、残念なことだ。

この本で描かれている TD4 は、実に用意周到にデザインされた4bit CPU である。芸術的と言っても良い。巧みに設計されたオペコードとそのオペランド、論理回路への反映。CPU の本質を TTL わずか10個に封じ込めた著者の実力、そしてそのセンスたるや、世界的レベルにあると言える。

試しに Google で、TTL による CPU 設計を検索してみるとよい。8bit CPU であればかなりの数がヒットするが、4bit は意外に見当たらないものである。嬉しい事に、我が日本でも、4bit CPUをテーマにした授業が鹿児島大学で行われている。その名も ICS4004 というものだが、これとて30個以上を必要とする(実に良く練られた教材なので必見。このような授業がある限り、日本の未来は明るい!)。

確かに、TD4 では RAM アクセスできないなど、重要な機能が削除されている。しかし私に言わせれば、この「削除」が一番難しいのである。不要な枝葉を削ぎ落とし、必要最低限の枝だけを残すことは、誰にでもできる仕事ではない。だからこそ、20年もの間、本書に匹敵するテキストが誕生しなかったのだろう。

さらに付け加えれば、本書を出版したのは、CQ 出版・誠文堂・技術評論社・共立出版・オーム社、いずれでもない。毎日コミュニケーションズである。これだけの偉業が、なぜ老舗ではなく、新しい挑戦者によってなされたのか?その意味を私達はよく考える必要がある。

読者にできるのは購入を通じて、「この本に匹敵する良書をもっと提供せよ!良い本であれば、我々は喜んで買う」と、日本の出版界にアピールすることだ。その一方で、悪書には決して手を出さない姿勢が求められるが、このためには厳格な「書評」システムが必要である。残念なことに、今の日本に読者の信頼に応えることができる書評は、存在しないからだ。