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   西田 亙の本:GNU 開発ツール -- hello.c から a.out が誕生するまで --

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2003-12-02 (Tue)

[Thoughts] 無知の知

Technical writer に求められるもの

Replica 1 にはわずか一日、いや一時間で愛想が尽きてしまった。Replica I は Apple I を再現するためのハードウェア環境としては、確かに申し分ない出来だろう。しかし、添付されている文書のレベルたるや、高校生以下の代物である。Wozniak & Jobs による(彼ら自身が書いたかどうかは知らないけれど)、Apple I owner's manual も同様の出来だ。

私は、こういう未熟な文書に出会うと、悲しくなると同時に、腹が立って仕方がない。著者らが、本気で読者の立場に立って書いているとは、到底思えないからだ。日々の生活の中で、繰り返し私を責め立てる疑問がある。

  • なぜ、世の中にはこれ程役に立たない文書が氾濫しているのだろうか?
  • なぜ、善良なる読者が、質の悪い文書のために貴重な時間を浪費しなければならないのだろうか?
  • なぜ、悪書は世の中から駆逐されないのだろうか?
  • なぜ、本物の良書がしかるべき評価を受けることができないのだろうか?
  • なぜ、学校では教科書が絶対的な存在と化すのか?
  • なぜ、教師は全ての文書が不完全であることを生徒に教えないのか?
  • なぜ、世の中の読者はこのような状況に怒りを感じないのか?
  • このようなやり場のない憤りを覚える私は異常者なのだろうか?
  • それではなぜ、私は怒るのであろうか?
  • それは、質の悪い文書を読むとチンプンカンプンだから・・。

若い頃は、「理解できないのは、自分がアホだから」と考えていた。学校からは「難しい文章問題を解ける人が賢い人、難しい大学に行ける人」と教えられていたからだ。

しかし、今は違う。成人後10年近くをかけて、学校から教えられたこととは、正反対の境地に達した。ある日、「難解な文章の著者、その人こそがアホなのだ」と悟ったのである。著者の多くは、自らの無知を封印してしまったために、実はゴールに到達できていないこと、そしてそのゴールは自分の力で探し出すしかないことにも気づいた。途端に気持ちが楽になり、回りの視界が一気に開けた。と同時に、「どうして30年もの間、誰も真実を教えてくれんかったんや〜〜!」と我が人生を恨んだ。しかし悔やんでも仕方がない。脳天気な私は「人生半ばで気づけただけでも、めっけもの」だと考えた。

それからというものは、自分が真に理解できているのか、いないのか、常に意識しながら文書を読むようになった。学校教育の弊害により、私はずっと「知らないことは悪いこと」、「無知は恥ずべきこと」と考えていた。しかし、真に恥ずべきは「自分が無知であることを黙殺する」ことだったのだ。この時、「無知の知」という言葉の意味が、初めて了解できたような気がした。

世の中には技術書を書くために様々なノウハウ本が存在するが、私自身はこれまで一冊も手にしたことがない。披露宴のスピーチ本と一緒で、これらの本を百冊読んだところで、人の心に残る文章が書ける訳がないことを知っているからだ。

私自身の経験から考えれば、Technical writer にとって最も大切な資質は、自分の無知を冷静に見つめることができるかどうか、この一点にかかっている。無知に気づくことができれば、後は時間をかけて無知を知に熟成させていけば良い。自分の無知を認めることは、誰しも大層辛い。しかも、答はそう簡単には見つからないから、無知は増殖するばかりだ。ストレスも貯まる。しかし、この苦しみに耐え、ひとつの解に達することが出来たとき、書くべき内容は自ずと頭に浮かぶことだろう。Technical writer は「読者の身代わりとして痛みを知る人」と言えるのかもしれない。